どんどん長くなってどうしたもんかって感じでしたが、とりあえず今川軍追い返したところで一旦切りました。
続きはまた、信虎の追放までの流れと、その後の在京時代の二度に分けて書く予定です。
http://h.hatena.ne.jp/k-holy/316612807603486134
この投稿の流れも絡んでるのですが、松島周一氏『延徳三・四年の織田敏定と細川政元』に今回かなりインスパイアされました。
斯波義寛が義澄派に近付いた一方で、宗瑞と今川氏親が義稙派に転向していたこと、関東では伊勢宗瑞-長尾景春-長尾為景と手を組んでいること、朝倉氏に目を向けると教景(宗滴)が長尾為景と交流していたり、今川氏の庇護のもと外交官としても働いていたと見られる連歌師・宗長が何度か朝倉氏の元を訪れて教景と親しく交わっていることなど、このラインは全て義稙派で繋がってる気がしています。
関東のなんたら公方や両上杉氏と、畿内政権の関係はまだ把握できてませんが…。
