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ホリィ(新人)のことを語る

一方で信長がキリスト教を保護した理由は、畿内とその周辺において当時のキリシタン勢力は取るに足りないもので、ただ何となくその好奇心を充たす程度の存在であったためと説明されています。
初期の秀吉についても当初は容認していたものの、キリスト教の布教に伴う神仏排撃を問題視し、伴天連追放令においてもその教義ではなく諸宗派の共存を許さないことをもって「邪法」としており、神仏全てを尊重する「神国」日本には相応しくないというのが秀吉の論理だとしています。
追放令の直前に、パードレ達が人々を力ずくでキリシタンになすこと、僧侶を迫害し彼等と妥協せず寺社を破壊するのはなぜかと秀吉が詰問してきたことが、フロイスの書翰でも報告されているそうです。

ただ、それ以前の三好政権において、飯盛山城周辺の城主や家臣の多くがキリシタンとなり、やがて河内キリシタンの聖地となったことについては触れられていません。
むしろ、天下人や各地の大名はどの宗旨も優劣無く共存させようとし宗論を禁じたとしつつ、その例外として、「赤子に至るまで法華宗徒にさせ、他宗の寺院へ出入りすることを許さなかった」とする軍記物『三好別記』の記述が引き合いにされていて、三好氏と信仰の関わりについてはあまり踏み込まれていないようにも見え、そこが残念です。

個人的には、三好長慶の宗教政策は都市や地域ごとの住み分けを進めていたような印象を受けていますが、いずれにせよ領国における様々な信仰の受容と個人(あるいは家)としての信仰を別の問題と捉えている点は、多くの大名に共通しているようです。(一部のキリシタン大名を除いて…)