天文10年(1541)6月に信虎が追放された理由は、当時の記録には信虎の「悪行」が原因で民衆はこれを恨み、追放を歓迎したとも書かれていますが、具体的なことは分かりません。
重臣層の不満としては関東出兵の失敗が有力なようで、諏訪氏、村上氏と組んでの小県侵攻(海野平の戦い)の成果については、そもそも合戦が追放の前月の5月25日のことで、6月14日には信虎が甲府を出て駿府へ向かったとあり(『高白斎記』による)、追放の計画は出陣中に密かに進められていたようです。
天文9年から10年にかけて甲斐では日照りと洪水による大規模な飢饉に見舞われていたことが『妙法寺記』に記されているとあり、これによる民衆の不満が後押ししたのかもしれません。
http://www3.plala.or.jp/ryusozan9/kouen_kiroku/3syunen/myouhouzi_ki.html
実際、跡を継いだ晴信は翌年に釜無川の洪水に対して堤防の構築を発願し、十余年がかりで完成させています。
この「信玄堤」については、一次史料に直接現れないことから否定的な見方もあるようですが、永禄3年(1560)8月に堤防の後背地に当たる竜王宿への作家居住が奨励されており、その技法は「甲州流川除法」として後々まで展開されるほどの大きな治水事業だったとのこと。
永禄年間の信虎在京については、柴辻氏は今川氏ではなく武田氏との連携と見られているようです。
あと、気になる宗三左文字の経緯、やっぱり分かりませんでした。
