ちなみに稲八妻は幕府御料所で、政所執事である伊勢氏の被官・進藤氏が公文を務めていて、明応の政変後に山城国守護に補任された伊勢氏と守護代・古市氏による寺社本所領への介入に抵抗する国人達が、進藤氏を張本人として集結したものの、古市氏の侵攻により敗北したという話ですが、実はその国人達の大半は細川政元の被官人でした。
また、古市氏は単純に「細川政元の武力を背景とした守護の勢力」というものではなく、応仁の乱では西軍義就方の大和国人(興福寺大乗院衆徒)で、東軍方だった国人からするとやっぱりかつての侵略者という関係。
政元の煮え切らない態度について、川岡勉先生は、明応の政変によって義就流畠山氏と古市氏が幕府・守護体制に復帰したことと、前将軍派である政長流畠山氏への対抗上、伊勢氏との提携を優先せざるを得ず、結果的に自らの被官でもある山城国人達を見捨てることになった(ただし国一揆崩壊後に保護しようとはしている)と説明されてます。
伊勢氏とともに明応の政変を通じて発言力を増した政元の寵臣、上原元秀が畠山氏、古市氏と共謀したものと説く人もいて、こちらの方はまだよく分かりません。
こちらで書いた「城陽市史」の解説も、おそらくその辺りの説が汲み取られたものかと。
http://h.hatena.ne.jp/k-holy/228172984506072546
