『戦国三好氏と篠原長房』二巡目に入ってます。
『備前 浦上氏』を参照しつつ巻末の年表と播磨の情勢を合わせて読み解くと、阿波細川氏と赤松氏の関係や、赤松義村と浦上村宗の対立が及ぼした影響が見えてきて面白いです。
『昔阿波物語』によれば、篠原氏の出身地は近江国篠原で、宗半の代に多賀神社神官の荷物持ちとして阿波へ渡った際に三好之長に仕えて定住した。
之長が細川澄元の元で活躍した文亀~永正年間に「篠原左京進之良」「篠原右京進」の名が阿波国内の文書に表れており、そのどちらかが宗半を名乗ったと思われる。
宗半の子が大和守長政で、篠原氏の通字が「長」になったのはこの長政以降。
長政は永正十七年(1520)十二月十八日付、三好元長の子・千熊丸(後の長慶)が発給した安楽寺の召還状に「篠原大和守」として添状を書いていて(安楽寺文書)、その頃には三好氏の重臣の地位にあった。
阿波の情勢は、永正17年(1520)2月に澄元方が前年末頃から攻囲中だった越水城を開城させ、高国を近江へ追い落として義稙と和睦し上洛したものの、5月に再び敗れて澄元は播磨に逃れ、之長も京都等持寺で敗れて自刃、6月には阿波で澄元が病没。細川澄元の後は嫡子・彦九郎(持隆)が、三好之長の後は嫡孫・元長が継いだ。
播磨では、永正17年から18年にかけて赤松義村と浦上村宗が対決していて、永正17年4月に義村が美作岩屋城を攻めるも宇喜多能家の活躍で惨敗し小寺則職が自刃、11月に三石城を攻めるも備中松田氏来援の噂を聞いて撤退したりで、正室と嫡子政村と洞松院が室津の村宗の元へ行き、義村は出家するも翌年1月に再び挙兵して敗北。
大永元年(1521)3月、細川高国と険悪になっていた将軍・義稙が出奔、7月には高国が村宗に要請し、永正8年(1511)頃から赤松氏の元で養育されていた前将軍・義澄の嫡子亀王丸を義村から受け取って上洛させている。村宗は9月に室津で半ば幽閉されていた義村を殺害。
一方、出奔した義稙は大永3年(1523)4月に阿波で死去するが、前将軍・義澄の子供のうちもう1人はすでに澄元によって赤松氏の元から連れ出され阿波で育てられており、義稙はこれを猶子として後を託している。
これが大永7年(1527)3月、細川澄元の嫡子・六郎(晴元)と共に三好元長に擁立され堺へと上陸した「堺公方」足利義維。
すでに赤松氏から独立していた別所村治は、かつて義村方だった小寺村職とともに浦上村宗と対立関係にあり、大永2年(1522)9月から10月頃にかけて、三木城に攻め寄せた村宗方を撃退して逆に書写山まで攻め込んで勝利した。
しかし、浦上村国らかつての義村方の牢人衆が但馬の山名誠豊の軍勢を播磨に引き入れたことで、共通の外敵を前にした村宗と小寺氏は和睦、結局は大永3年(1523)10月の書写山の戦いで山名氏を撃退した村宗が播磨を平定、大永3年(1523)12月に村宗は赤松政村の名代として上洛し、高国の饗応を受けている。
もちろん別所氏や小寺氏が村宗の下で大人しくしているわけはなく、後に阿波勢とも連係して柳本賢治の挙兵に応じ、高国・村宗と戦うことになる。
