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ホリィ(新人)のことを語る

江戸幕府確立後に成立した『甲陽軍鑑』では姉川合戦の評に、信長三万五千は浅井三千に退かされたのに比べて家康は五千の三河勢で朝倉一万五千を切り崩したとして、「勝利を得たるは悉く皆徳川家康がわざなり」とまで書かれているとのこと。

また『徳川実紀』においても、信長が朝倉の大軍を徳川軍だけで抑えさせたとあっては天下の笑い者になるから部下を引き連れて行くよう説得し、家康はそれに応じて稲葉一鉄の加勢を望んだものの、翌日の合戦では徳川軍が単独で朝倉軍を切り崩し、稲葉は何もせず済んでしまったと書かれているそうです。

しかし、信長から細川藤孝宛の書状において、徳川軍を加勢したのは池田恒興と丹羽長秀だったことが明らかで、そういう誤った逸話を載せるのは史料として全く信憑性がないし、幕府成立後の家康信仰の影響が如実に現れているものとのこと。

そもそも「姉川合戦」という呼称自体が当時のものではなく、浅井方は「辰鼻表においての合戦」や「野村合戦」、朝倉方では「三田村合戦」と、各々の陣所や戦場に合わせて呼んでいて、徳川方でも当時は「江州合戦」と呼んだものが、後々にも近江を舞台にした合戦が多くあったため、江戸時代の編纂物の中で初めて「江州姉川合戦」といった表現が使われるようになったそうです。

それほど私達の知る「歴史」の常識とは江戸幕府というフィルターを通して形作られたものだという話で。