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ホリィ(新人)のことを語る

ふと思い出して、平山優氏の『天正壬午の乱』を確認したところ、家康が6月14日付の書状で「若君様御座候間、供奉致し上洛せしめ、彼逆心の明智を討ち果たすべき覚悟にて今日十四日鳴海に至り馬を出し候」と述べていて、三法師を旗印とする考え方が広く存在したのではないかとのことでした。

信長没後の織田政権との関係についても興味深い話が書かれていて、清州会議に対する関わりは分からないものの、混乱の極みにあった甲信地方への侵攻準備を進める家康に対して秀吉から7月7日付の書状で「今度信長不慮のこと御座候について、信州・甲州・上州置かれ候者共罷り返り候、然らば両三ヶ国の儀、敵方へ御渡しなさらるるべきにあらず候条…」とあるとのこと、当時の家康は名目的には織田政権の一員として行動していたようです。