何度目か分からないけど2008年に出版された『新説 桶狭間合戦』を再読中。

今川義元の狙いは大高城から船で伊勢湾に出て、夏の季節風を利用し、織田方の重要な海上交通と経済の拠点であった熱田、蟹江、津島を襲撃、海上封鎖によって知多半島を織田方から切り離すとともに、経済基盤を崩壊させることにあったという説。
この本は漫画『桶狭間戦記』の補完になればと思いつつ買ったものですが、そちらも何度目かの再読でところどころ確認しながら読むと、漫画に描かれている義元の戦略はこの説と全く同じものでした。
鷲津・丸根砦と大高城への兵糧入れの前後関係や、義元が桶狭間に本陣を定めた目的、佐々隼人正・千秋季忠の攻撃対象と岡部元信の動き、前田又左衛門ら馬廻衆が今川勢の首を見参した姿が描かれていない(この本ではその別働隊を率いたのは柴田勝家と推測)、信長が義元本陣への攻撃に鉄砲を全く使っていないことなど、細部の状況は異なっているものの、この本での状況解説も参考にしたんだろうなという感じ。
弘治元年(1555)8月に行ったという海上からの蟹江城攻めに際して、義元は撹乱のために伊勢侵攻の噂を流したとのことですが、その影響で詠まれたという歌が北畠国永が編纂した『年代和歌抄』に掲載されているという話が面白いです。
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今川の人数当国へとうち越し、志摩取らんとて舟ども浮かべける折、人の御元より歌賜う返し二首
伊勢の海や寄る人も波の神風に吹き返されて舟ぞ漂よう
伊勢の海に身を沈めん駿河なる富士の高根と嘆きをぞ積む
今川氏だけでなく、三好氏が河内・大和を制圧した後に伊勢侵攻が噂された時や、また永禄12年の織田氏の侵攻に際しても、北畠具就が「唱ふなり声とぞ流す甲斐ありて仇をば早くちりぢりになせ」と詠んでいるそうで。
元寇の際の「神風」の神威によって亀山上皇が内宮・外宮の風の社を昇格させ、これが今も続く外宮の風宮、内宮の風日祈宮となったとのこと。
