とりあえず兵庫縣神職会『兵庫縣神社誌 中巻』より「天正十二年八月吉日 小寺宗圓」の禁制の内容を再確認してきました。
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定 惣社
一 牛馬はなちかふへからさる事
一 芝うちとるへからさる事
一 植木之近邊へ立よるへからさる事
右條々任筑州様御判形之旨不可有相違者也仍如件
天正十二年 八月吉日 小寺 宗圓 (花押)
水野 與八郎 (花押)
鯰江 相模 (花押)
これは天正8年の「藤吉良」記名の制札と合わせて2枚の「豊臣秀吉制札」として、惣社(射楯兵主神社)所有の宝物に数えられています。
天正8年の方は4月28日付の禁制で、三木城、英賀城、香山城、長水城を落として播磨を平定した後のもので、全文は省略しますが「当社竹木伐採」「社人私宅宿取」「社人諸公事役」を禁止する内容で、姫路城改修と城下町の整備開始に伴うもののようです。官兵衛が姫路城を明け渡して父・宗円の居城国府山城(妻鹿城)に移ったというあれですね。
天正12年8月は、3月から交戦を開始した小牧・長久手の戦いの最中で、秀吉は美濃に出陣していたようです。
すでに前年には大坂城が築城を開始していて、大門先生によると官兵衛も普請を監督していて、これに際して秀吉は西宮で人夫への宿の提供を禁止するよう申し伝えたとのことで、上記天正8年の姫路城でも見られる内容です。
この「小寺宗圓」が官兵衛の父のことだとすると、まだ国府山城に居た頃ですね。官兵衛は黒田に復姓して順調に出世しているはずですが、姫路では「小寺」を名乗ることに意味があったということでしょうか…。
宗円は翌年に亡くなって城も廃城になったようですが、後に筑前黒田家によって立派な廟所が建てられています。
