政村の一時帰国 ×天文8年 ○天文10年 でした。
尼子氏侵攻の背景は、川岡先生の「尼子氏の勢力拡大と中央政界」の話も合わせて考えたいところです。
http://h.hatena.ne.jp/k-holy/171940152642418377
http://h.hatena.ne.jp/k-holy/299852991200918838
晴元方 vs 高国→氏綱方という対立軸は、阿波との関係がたびたび捻れてるのがややこしい。
享禄4 大物崩れで高国政権崩壊、浦上蜂起
享禄5 足利義晴から浦上方に御内書あり、三好元長敗死→堺幕府崩壊、細川晴元が足利義晴と和睦
天文元 細川晴元が六角定頼と組んで本願寺と対立
天文3 赤松方と浦上方が朝日山にて激戦、尼子氏は興久の乱で内戦
天文4 細川晴元が本願寺と和睦
天文5 赤松政村は浦上政宗と和睦、本願寺から双方に贈り物あり
天文6 尼子詮久が家督継承、第一次播磨侵攻
天文7 尼子氏第二次播磨侵攻、龍野赤松・明石・小寺氏が尼子方へ、赤松政村は淡路郡家の田村氏の元へ亡命
天文8 赤松政村が阿波細川持隆の支援で明石城奪還→三木城入り→堺へ亡命、政村左京大夫任官、義晴から一字拝領し晴政に
天文9-10 尼子詮久が吉田郡山城攻めで毛利・大内氏に敗北
天文10 赤松晴政が播磨に帰国、幕府に御内書申請、浦上政宗はすでに備前・西播磨に自立
天文11 三好長慶が木沢長政を飯盛山城に破る、細川氏綱が挙兵
天文12 大内義隆が月山富田城攻めで尼子氏に敗北
天文15 遊佐長教が氏綱方に離反、足利義晴が氏綱方に通じて出奔?六角定頼を管領代として足利義藤が将軍任官
天文16 晴元方と氏綱方で舎利寺の合戦
天文17 三好長慶が六角定頼の斡旋で氏綱方と和睦→氏綱方に離反、江口の戦いに勝利し晴元政権崩壊、将軍父子と晴元は近江へ
で、天文20年に陶隆房の謀反で大内義隆が敗死して、翌年に尼子氏がそれに代って8ヶ国守護職を経て再び播磨侵攻(上洛戦?)、浦上政宗が浦上宗景と対立。
天文23年に有馬氏の要請を受けて三好氏が大軍で別所氏の三木城を攻め、別所氏は降伏。
置塩城の赤松晴政の動向はWikipediaによれば、天文23年に嫡子義祐が三好方とともに明石城に細川晴元を攻めたらしい。ほんまかいな?
