軍記物には尼子経久の弟・久幸の討死をはじめ尼子側の惨敗が描かれていて、これによって急速に尼子が衰えて毛利が抬頭したかのように考えてしまいがちですが、人的被害よりもむしろ元就が記しているように、敗戦によって周辺の多くの国人達が大内方に付いたため、体制を構築し直す必要があったのだと思います。
毛利氏の方も当時まだ大内氏に従属する一国人に過ぎず、尼子軍の撤退後に尼子方の安芸守護・武田氏の佐東銀山城を落とし、大内義隆から武田氏旧領を与えられてようやく水軍の編成に取り組もうという段階で、大きく飛躍するのはいわゆる両川体制を整えて井上党の誅戮を果たす、天文19年頃です。
