郡山城合戦の頃、足利義晴を擁する晴元政権の状況は、天文8年6月に三好長慶が河内十七箇所の代官職を巡って晴元と対立し、六角定頼らの調停で和睦して摂津半国守護代と越水城を与えられた後、天文10年8月に山城守護代と河内守護代を兼任して南山城・大和・河内に勢力圏を築いていた木沢長政が謀叛、翌年に討伐されます。
その後で細川氏綱が高国党に担がれて挙兵しますが、まだ政権を揺るがす程の勢力には至っていません。
これが尼子氏が再び播磨侵攻を開始する天文21年の時点では、すでに晴元政権が崩壊して将軍も近江に亡命、氏綱を擁する三好長慶が畿内の覇者になっています。
重要なのは、ちょうど六角義賢の仲介で将軍・足利義藤と和睦しており、室町幕府を再建していた時期に当たることです。
細川晴元もこの時点では和睦を受け入れて出家し、嫡子・聡明丸(後の昭元)を幕府に出仕させています。
(程なく出奔して若狭武田氏の元に身を寄せ、三好政勝や香西元成らと組んで丹波方面から京都を脅かしていますが)
大内氏では天文20年に陶隆房が大内義隆を弑逆し、以前に大友氏に送り返された猶子・八郎晴英を後継者として擁立していますが、毛利氏も陶隆房と連携して大内領を攻め取っており、まだ陶氏とは直接的には対決していません。
毛利氏が陶氏と断交するのは天文22年10月に吉見正頼が陶氏に背いて挙兵した後、天文23年3月のことです。
尼子晴久が天文21年4月に幕府から因幡・伯耆・備後(山名氏の旧分国)、備前・美作(赤松氏の旧分国)、備中(細川氏の旧分国)の6ヶ国守護職を得て、6月に出雲・隠岐守護職を安堵された背景には、こういう畿内と中国両方での情勢の変化があったわけです。川岡先生の話がやっと実感として理解できました。
