本には「守護代朝倉敏景」って書いてましたが、これ大きな誤りですね。
蓮如が吉崎に進出した文明3年といえば甲斐敏光とガンガンやり合ってる時期じゃないですか。
あと長享元年の足利義尚率いる六角討伐に関しても相当な事実誤認があって、天下の諸大名に出陣の命を出したが出陣に加わったのは富樫政親ただ一人だったとか、どうしてこうなったという感じです。
やはり当時はまだ、応仁の乱で幕府崩壊、諸大名は挙って下国して「戦国大名」への道を進んでいった、みたいな見方が主流だったんでしょうか。
一向宗や一向一揆と現地勢力の関わり合いについては参考になるところが多いのですが、本願寺と幕府や諸大名との関係についてはちょっと素直に読むわけにはいかない感じです。(意図的に無視されているのか当時の論調自体がそうだったのか分かりませんが)
今日ちょっと吉川弘文館の戦争の日本史シリーズ『一向一揆と石山合戦』を立ち読みしてきたんですが、さすがにその辺はきっちり書かれていました。
以下のAmazonのレビュー欄にも研究史の変化が表れてます。
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統一政権を打ち立てようとする信長に対し、大きく立ちはだかった勢力の一つが本願寺教団による一向一揆である。
この一向一揆とは、真宗本願寺門徒による武装蜂起を指す。彼らの信仰は、当時の封建的人間関係に批判的なものであったとされ、覇権をめざす信長とは原理的にぶつかりあった。このため、信長はこれを根絶やしにしようとしたというのが、これまでの歴史像である。
しかし、咋今の研究では、これらとは異なる一揆像が提示されている。本願寺は、現世の支配者を批判するような信仰を説いた形跡は実は見つかっていないし、当時の世俗の政治権力に密着していた。むしろ室町将軍は本願寺に対し、大きな影響力を持っており、一向一揆自体が、当時行われた政治抗争の一つにすぎないというのだ。「百姓は草のなびき」ということわざ通り、戦国の動乱期に命をかけて武器を取った門徒たちに想いを馳せてみたい。 --担当編集者より
