>天文二年8月の法華宗による山科本願寺焼き討ちを受け、証如上人が石山本願寺に移った際、細川晴元の軍勢により野田村の信徒が犠牲になったとのこと
こんな風に書くと真宗受難の時みたく思われそうですが、享禄5年(1532)から天文2年(1533)にかけては、国人や農民を中心とする一向一揆と京都町衆を中心とする法華一揆が畿内各地に戦火を巻き起こし、山科言継が「天下はみな一揆のままなり」と嘆いてみせたほどの時期でした。
大物崩れでの勝利を経て細川高国政権を駆逐した細川晴元でしたが、その内部では細川持隆、三好元長ら阿波衆を主力とする一派と、晴元と木沢長政、茨木長隆、三好政長ら摂津衆を主力とする一派の対立が激化し、晴元は阿波衆の影響が強い堺公方・足利義維に代わって、近江に逃れていた足利義晴を再び呼び戻そうとする始末でした。
そんな状況で、主家を蔑ろにして晴元の帷幄で権力を振るう木沢長政に対し、河内守護の畠山義堯は先手を打って三好元長ら阿波勢と結び、長政を飯盛山城に包囲、劣勢となった晴元らが本願寺に援軍を要請した結果、摂津・河内・和泉の数万におよぶ信徒が動員されます。
阿波勢を追い落とした一向一揆の大軍は十万とも記され、その勢いで堺顕本寺に攻め寄せて元長らを滅ぼし、証如門主の制御をも離れて急進化した門徒は畿内各地で蜂起、奈良においては興福寺が炎上、春日社も宝物を掠奪されるという有様だったとか。
法華宗による山科本願寺焼き討ちは、そういう経緯の元で晴元方からの働きかけによって行われたもので、今谷明氏いわく「毒をもって毒を制す」というものだったわけです。
