id:k-holy は
ホリィ(新人)のことを語る

で、なんでこんな話を続けるかというと…
野里の戦跡、野田城跡に続く第三目標がこちらの榎並城跡だったのですが、ここが晴元政権における内部対立の延長で起きた戦いの舞台となったからです。


榎並城は「河内十七箇所」と呼ばれた大荘園に隣接し、前述の経緯で堺に自刃した三好元長に代わって十七箇所の代官となった三好政長が、天文2年(1533)に居館を築いたのが始まりと伝わっています。

当時の榎並は旧大和川と淀川の合流地点で三方を川に囲まれており、水害に悩まされていたそうですが、その分守るには堅固な城だったようです。
旧元長党を継いで晴元政権に復帰した三好長慶が、天文17年(1548)に晴元から離反して細川高国の養子・氏綱に付いた際、榎並城は長慶方の包囲に半年以上も持ち堪えました。

晴元方の作戦は近江六角氏からの援軍を待って攻勢に出るというものでしたが、榎並城には隠居した政長(宗三)の子・政勝が入っており、我が子可愛さからか政長は無謀にも榎並城に程近い江口城に入って孤立し、援軍の到着を前に討ち死にしました。
その後、政勝も榎並城から脱出して丹波に逃れ、反長慶派としていわゆるゲリラ活動を続けることになります。