『政覚大僧正記』(興福寺別当・大乗院政覚の日記)十二月十八日条にこう書かれているそうで。
「昨日、古市・越智三郎以下当国衆ことごとく以て城州より帰陣なり、山城国衆三十八人一揆せしめ、牢人方・越智方、ことごとく以て帰陣すと云々、合戦に及ばず、数日を経るといえども引くの条、稀代の事なり、同じく武家衆も引くと云々、城州の事、両方とも是れ以後、入れ立つべからざるの由、国の面々一同すと云々、然らば寺社本所領の事、本式の如く、本所の使を用うべき由、風聞なり、事実たらば、然るべき事なり」
国一揆が獲得した国成敗権は幕府から正式に認められたわけではないものの、寺社にとっては本所領の回復、幕府にとっては安定の確保、細川氏としても国一揆を主導した国人の多くが被官人であったこともあり、当面の利害が一致したために容認されたということです。
これが明応の政変で細川政元と手を組んだ義就流畠山氏とその与党古市氏が幕府に復帰、また政元とともに政変を主導した政所執事伊勢氏が山城守護でもあったため、彼らを中心とした幕府-守護体制による山城支配の再建が図られ、国一揆は解体されていくという流れです。
その後、古市氏を支援してきた河内の畠山勢が南山城に入部して違乱に及んだことから、古市氏に代わって細川氏内衆の赤沢宗益と香西元長が守護代に起用され、更に前将軍派の畠山尚順が紀伊から河内へ侵攻し大和でも与党の筒井氏らが優勢になったため、赤沢の山城入部と大和への侵攻が果たされたとのこと。
こうして政元が山城を直接支配する条件が整ったものの、守護職を掌握したわけではなく、京兆家と伊勢氏が共通の敵である前将軍派に対抗するために協力関係を築き上げたものと評価されています。
