こういう流れで見ると、応仁の乱で細川勝元が畠山政長を支持したのは、あくまで京兆家の権力強化のために畠山氏の弱体化を狙ったもので、政元もその路線を引き継いでいたように感じますね。
明応の政変以後の幕府-守護体制への京兆家の関わりをどう捉えるかは研究者の間でも見解が分かれているようですが、少なくとも政元が畿内で初めて戦国大名を志向していたという意見には、懐疑的になりました。
(いわゆる戦国大名のイメージでは、畠山義就の方がよほど合致していると感じます、今のところは)
この問題は戦国時代をどう捉えるかという話にも繋がっていて、今谷氏も「戦国 三好一族」で書いてましたが、いわゆる戦国大名による地域権力統合化の帰結として、織豊政権を唯一の到達点と考える立場からは、畿内の複雑な政治状況を正しく評価できないと思うのです。
その点では、三好政権時代においてもなお幕府-守護体制が健在していたと主張されている川岡先生の視点が、幕府と細川政元、山城国一揆との関係についての評価にも貫かれています。
国一揆をめぐる諸論点 より
「細川氏による被官化の拡大をもって領国化と総括する議論には、東国大名を指標に自己完結的な大名領国像を描き出そうとしてきた旧来の戦国期研究の影響を受けていよう。しかし、近年の研究では、こうした方法で全国の権力秩序を説明しようとする試み自体が疑問視されるようになってきており、複雑で流動的な畿内近国の権力状況に大名領国制論を当てはめる発想には問題が多い。」
「政元は将軍権力との関係を安定的に維持することに留意しながら勢力拡大を図っていくのであり、伊勢氏の山城守護職を尊重する動きを示すのもそのためである。」
「戦国期の畿内では、細川京兆家の影響力、とりわけその被官人支配を組み込む形で幕府-守護体制の維持・再建への努力が続けられたとみるべきであろう。」
川岡先生は高国政権をどう評価されているのか、興味が湧きます。
