主な舞台となった南山城地域の特徴
・荘園が多い
禁裏料所(天皇家の領地)、摂関家をはじめとする公家の荘園、東寺、醍醐寺、賀茂社、北野社、石清水八幡宮など寺社領、室町期には将軍家の御料所や奉行人・奉公衆の所領、幕府と関係の深い相国寺、東福寺など禅宗寺院の所領も増加している。
領主の指令のもと百姓に年貢を納入させる下司、公文、刀禰といった荘官の職には国人が就いた。
また、それぞれの所領が複雑に入り組んでいたため、荘民による境相論がしばしば発生した。
・大和との関わりが深い
興福寺、東大寺など南都の諸大寺の所領が分布、春日社の末社も各地に勧請され、いわゆる惣村における氏神や鎮守神を祭る宮座の発達とともに、地域の活動に影響を与えていた。(徳政一揆などを生み出す基盤ともなる)
大和の有力国人にも興福寺衆徒が多く、筒井氏や越智氏は一乗院、古市氏や十市氏は大乗院の傘下にあったため、応仁の乱で東西(東軍…筒井・十市、西軍…古市・越智)に分かれて争った彼らが尖兵として南山城に侵攻することにも繋がった。
・流通と交通の要地
南北に流れる木津川は淀川から大阪へ、桂川から京都へと通じる水上交通の大動脈だった。
また、京都と奈良を結ぶ奈良街道(東路…木津川東岸を進む古代山背道、西路…木津川西岸を進む古代丹波道)を中心に村が発達するとともに、東は近江、西は河内へと至る街道が交差する要地で、戦時には大軍の移動経路ともなった。
国人は居館を構えて堀を巡らした環濠集落、土塁を設け垣根を築いた垣内集落を形成して、荘民との結びつきを強めていった。
戦国時代に入ると通行料を徴収するために新関が多く立てられ、交通の障害になっていた。
興福寺は大和の国人を使って交通路の確保に努めており、特に古市氏は馬借(輸送業者)との強い繋がりが指摘されている。
応仁の乱で東西両畠山軍によって多くの新関が立てられたことから、山城国一揆では畠山軍への退去要求とともに新関の撤廃を申し合わせることになった。
