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ホリィ(新人)のことを語る

田中慶治氏『国人古市氏の馬借・関支配について―南山城を中心にして―』

まだ途中ですがまとめ(縦書きPDFって今の横長の画面だと読みづらい…)

・大乗院経覚を擁した古市氏

大乗院の衆徒であった古市胤仙は大乗院門跡、興福寺別当を歴任した経覚を推戴しつつ、興福寺の大きな収入源であった摂津河上五ヵ関の関務代官を巡って筒井順永・成身院光宣兄弟と争った。

文安二年(1445)に古市氏が筒井氏に敗れたことで経覚は大乗院を追われたが、胤仙は半ば強引に自身の本拠地である古市に経覚を居住させ、経覚は文安四年(1447)から文明五年(1473)の死に至るまで古市の迎福寺で過ごすことになる。

経覚は隠居したとはいえ後任の尋尊はまだ17歳であり、古市移住後も二度に渡って興福寺別当を務めるなど、大和国内および中央ともに強い影響力を持っていた。

・古市氏と馬借一揆

経覚の古市移住後間もない文安四年(1447)七月、大和・近江・河内・山城等で馬借一揆が蜂起した。
経覚は『経覚私要鈔』において、自身が胤仙とともに南都を滅亡させようとして馬借を煽動したため衆勘を受けたとの風説が流れたことを記している。

交通の要衝であった古市を本拠地とする古市氏は輸送業者であり中小商人でもある馬借と深い繋がりを持っており、大和の守護代ともいうべき官符衆徒の棟梁の座を筒井順永に奪われていた胤仙が、一揆を支援したとしても不思議ではない。

経覚は近江・河内の馬借一揆に対して怒りを表すとともに、宿敵筒井氏が一揆鎮圧のために軍勢を出したことを歓迎していることから、一揆を煽動したとは思われない。

しかし、その後の長禄元年(1457)に起きた馬借一揆においては、当時京都に滞在していた経覚が南都下向の際、木津氏と狛の中村氏に命じて馬借に道を開けさせるとともに、その目安・申状を官符衆徒沙汰衆および九条家に取り次いでいる。