・古市氏の南山城進出
木津氏は興福寺一乗院の坊人であり経覚にとっては他門に属する者だが、大乗院門跡は木津渡における年貢運搬・馬借の監督者である御問職の補任権を掌握していた。
経覚も『経覚私要鈔』において長禄四年(1460)九月当時に自身が御問職を知行したことを記しており、当然木津氏とも深い関係にあった。
古市氏は経覚を手中にしたことで木津渡をも掌握することとなり、『経覚私要鈔』享徳二年(1453)二月二四日条には、胤仙が伊勢国司北畠教具の石清水八幡宮参拝に際して木津船の手配を依頼されたことが記されている。
応仁の乱の頃、胤栄の代には南山城への進出をはじめ、『大乗院寺社雑事記』文明二年(1470)一月九日条には、西軍方の国人椿井氏の要請を受けて相楽庄に出陣したことが記されている。
同年七月に大内政弘の大軍が上洛したことにより南山城は西軍方が制圧、胤栄も十月から本格的に進出を開始し、被官の土屋氏を下狛に駐留させて南山城における拠点とした。
・古市氏の関支配
興福寺の貴種僧は新関に対する拒否反応を示しているが、本関に対しては関料を支払うか過所(通行許可証)を持って通行しており、文明四年(1472)五月に尋尊が胤栄に対して過所(通行許可証)を発給するよう依頼した狛の関も本関と見られる。
古市氏は木津渡と狛という二つの本関を支配していたことになり、南山城への進出を果たした古市氏は、西軍における山城守護の畠山義就や大内氏の勢力を背景として、実質的に山城守護代にあたる地位にいたと推察される。
後年の明応二年(1493)九月、山城国一揆崩壊後に古市澄胤が南山城守護代に補任されたのも、文明年間の事実上の守護代としての実績が評価されたためと考えられる。
『大乗院寺社雑事記』文明十六年(1484)三月十六日条には、尋尊と政覚が上洛した際、山城に新関があったが、古市澄胤と大和国人の堤氏に依頼したおかげで無事に通行できたと記されているほか、明応四年(1495)一月にも一条冬良の子息・慈尊が奈良へ下向した際、古市氏の一族井上氏に依頼して五ヶ所の新関を通行したことが記されている。
新関に対して拒否反応を示していた興福寺の貴種僧である尋尊が、本来は大乗院坊人として尋尊に奉仕する身であった古市氏やその一族に対して通行の便宜を図ってもらうよう依頼したのは、事実上の守護代の地位にあった古市氏の設置した新関が、幕府による正式なものと認識され本関並に扱われていたからではないか。
