読み終えましたが、ここで論旨はほぼ出揃ってましたので、古市胤仙から澄胤あたりまでのまとめ。
古市氏は大和の有力国人の中では新興勢力であったが、元大乗院門跡の経覚を手中にしたことで木津渡を掌握するとともに、文明年間に西軍方として南山城へ進出、交通の要衝であった木津と下狛を支配拠点とした。
また、文安年間より馬借を組織して一揆を煽動していたが、文明年間に進展した南山城の関支配を通じて、輸送業者であり中小商人でもある馬借を組織化したことで、交通路と商業資本を掌握するに至った。
古市氏はこれらの商業政策で得た経済力を背景に、文明年間は南山城における西軍方の実質的な守護代の地位にあったと見られる。
文明17年(1485)12月、山城国一揆によって両畠山勢は南山城から撤退したが、明応の政変後には守護・伊勢貞陸のもと守護代として幕府に復帰し、明応2年(1493)9月に再び南山城へと侵攻、山城国一揆による国持体制は崩壊した。
南山城における古市氏の軍事支配は、義就流河内畠山勢の南山城への再進出を受け、明応5年(1496)8月、赤沢宗益率いる細川勢が侵攻するまで続いた。
また、大和においても古市澄胤は官符衆徒棟梁に任じられ、古市氏の全盛期を迎えた。
赤沢宗益の大和侵攻に際しては、宿敵である筒井氏は前将軍義材派の政長流畠山尚順と結んだが、古市氏は赤沢に協力し、筒井氏らを破って没落させた。
澄胤は永正4年(1507)6月の政元の横死後も後継者となった澄元方に付いていたが、永正5年(1508)6月、前将軍派に走り大内義興と結んだ細川高国が挙兵し、畠山尚順と結ぶに至り、最期は河内高屋城攻めで敗死した。
