id:k-holy は
ホリィ(新人)のことを語る

嶋氏が史料に現れる至徳から応永年間頃、平群谷では北部の東寺領平野殿庄一帯を平氏一族の曾歩々々(そぶそぶ)氏が、中南部の興福寺領福貴寺庄・大内庄を椿井氏が管理していたそうです。

椿井氏といえば『山城国一揆と戦国社会』にもちらほら名前が出ていた山城相楽郡の国人で、文明9年に畠山義就が大内氏と入れ替わりで侵攻した際に代官職を奪われたものの、両畠山勢が対陣を続けていた文明17年頃には義就方に付いて古市氏や越智氏に協力しています。
(椿井氏も彼らと同様に大乗院方の衆徒で、元弘の頃には官符衆徒にも任じられていたそうです)

この本ではその椿井氏は次第に嶋氏との力関係が逆転して平群谷を追われたとして、「終始嶋氏と敵対していた裏には平群谷を追い出された恨みがあったのかも」と推測されています。

また、文明9年(1477)9月に畠山義就が河内に下国して翌10月に大和へ侵攻した際、筒井順尊、成身院順宣、曾歩々々氏らとともに嶋氏も没落したとのことですが、その後曾歩々々氏は史料に表れなくなるため、跡継ぎを失ったか嶋氏に吸収されたものと推測されています。

没落した嶋氏は21年に及ぶ流浪の末、明応6年(1497)に筒井党の復帰とともに再び平群谷へ戻ったとのことで、その頃には嶋氏は平群谷を代表する存在だったということでしょうか。
(その数年後には赤沢宗益が大和へと侵攻してくるわけですが…)

なお、流浪中の足取りは明確でないのですが、嶋氏の縁戚であった木津氏の本拠地に近い、南山城の嶋庄に逃れていたのではないかとのこと。
嶋庄は田辺別所氏が下司を務めた興福寺東院領の田邊庄と合わせて『多聞院日記』にその名が記録されており、ちょうど嶋氏が没落した頃から年貢が毎年のように滞るようになったことから、食い扶持が増えて年貢が納められなくなったのではないかと推測されています。