赤沢宗益は明応8年(1499)12月に秋篠城へと侵攻、前将軍派の畠山尚順に与する筒井党を破り、危機感を募らせた国人衆は永正2年(1502)2月、春日社頭に起請文を掲げて和睦して国人一揆を結成したものの、細川政元勢は河内誉田城に義英、高屋城に尚順と立て続けに両畠山氏を破り、両人が大和へ逃げ込んだことから、永正3年8月には再び赤沢宗益による侵攻が行われ、大和は赤沢の支配下に置かれました。
翌4年6月には政元が暗殺され赤沢宗益も出征先の丹後で敗死したことから、大和の国人衆も一時的に盛り返しはしたものの、細川澄元方で赤沢宗益の養子・長経の侵攻を受けて再び没落、更に両畠山氏の和睦が敗れた影響を受けて国人一揆は崩壊、赤沢長経は永正5年(1508)7月に畠山尚順に敗れて翌月に斬首された結果、引き続き畠山尚順に協力して高国方となった筒井党と、澄元方の越智党に分裂して争ったとのこと。
この間の嶋氏の動きは明確ではありませんが、『祐維記抄』には永正17年(1520)10月に法隆寺で行われた筒井党と越智党の和睦に際して、かつて筒井方の与力だった国人たちが越智方へと返されたという記述が見え、その中に嶋氏の名が挙げられています。
永正17年といえば、高国と連合政権を組んだ大内氏はすでに帰国、澄元方と高国方による京都の奪い合いが繰り返された結果、近江の六角定頼と呼応した高国方が京都を奪回し三好之長が敗死、澄元も帰国後に病死したことで、中央では高国方の勝利でしばらく安定した時期です。
大和国人衆が応仁の乱以後は両畠山氏、そして両細川氏の抗争に左右されてきた背景には「興福寺の衰退が大きな影を落としている」とのことですが、後者については他の畿内周辺国も全て同様なわけで、興福寺が衰退したのも幕府との関わりで支配力を維持するしかない体制で、その拠り所である幕府権力自体が分裂を繰り返して弱体化した結果だろうと思います。
他国では、守護代層が守護の権威を背景として、あるいは幕府と直接関係を結びつつ国人の被官化を進め、実権を掌握していく例が見られますが、大和では興福寺の影響力が強すぎて抜きん出る者が表れなかったということでしょうか。
