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ホリィ(新人)のことを語る

次に嶋氏の動きが記録に表れるのは天文元年(1532)、晴元に重用され畠山氏からの独立しようとした木沢長政と、木沢に対抗して三好元長と手を結んだ畠山義堯の争いから、細川晴元政権の内部対立が激化し、晴元方の要請で本願寺門徒の大軍が動員された結果、畿内各地で門徒の蜂起が相次いだ頃。
『畠山家譜』に筒井順興の配下として家老の森九兵衛、松倉弥七郎政秀らと並んで嶋左近友之の名が記されているそうですが、松倉は筒井の左近右近として知られる松倉重信の父で、嶋の方も実在するとしても後年石田三成に仕えたいわゆる嶋左近ではなく先代であろうとのこと。

ただ、この『畠山家譜』や『和州諸将軍傅』などの書物では左近の名を友之としており、先代の事績が混同されているようです。
左近の名は『根岸文書』にある自筆書状とみられる文書、天正5年に春日社へ奉納した石灯籠の名文、そして『多聞院日記』に記されている「清興」が当時の名乗りとして確かだそうです。

大和の天文一揆が収まると、木沢長政は大和侵攻を目論んで信貴山に城を構え、天文6年(1537)に越智氏討伐を行ったほか、同8年の記録では興福寺領32ヶ所の荘園が闕所となっており、長政が荘園の押領を進めた形跡が見られるそうです。
信貴山の東麓にあたる平群谷も木沢の支配下にあった可能性が高いとのことで、筒井順昭も当初は木沢方に属していたのでおそらく嶋氏も同様と思われますが、天文10年には木沢長政が晴元に反乱して孤立、順昭は遊佐長教によって擁立された畠山稙長と結んでおり、天文11年3月に長政が河内太平寺で戦死した後、十市氏と和睦して越智氏を破った筒井氏が大和一国をほぼ制圧したようです。

晴元政権では天文12年(1543)に細川氏綱が高国の跡目と称して挙兵し、遊佐長教がこれに同調、天文16年(1547)7月の舎利寺の戦いで晴元方の勢力挽回に功績を上げた三好長慶も翌年には氏綱方に付き、天文18年(1549)6月の江口の戦いによって晴元政権は崩壊、将軍義晴も嫡子義輝とともに近江に逃れ、三好長慶が畿内の覇者となっています。