三好勢は、その後も病死した父に代わって京都奪回を目指す足利義藤(義輝)と近江六角氏の軍勢を天文19年(1550)7月洛中の戦いで破り(今谷明氏の『戦国三好一族』によると、『言継卿記』にはこの時晴元方の鉄砲に当たって死んだ者がいて噂になったことが記されており、これが鉄砲実戦使用の初見だそうです)、同年11月にも中尾城に篭る義藤を再び近江へ追い払い、翌年2月に義藤は奉公衆朽木氏の元へと逃れています。
三好方の優勢は、長慶が畠山氏の実権を握っていた遊佐長教の娘を正室としていたこと、また大和の筒井順昭も遊佐長教の婿であり、河内・大和両国と同盟関係にあったことが大きいのですが、天文20年5月に遊佐長教が帰依していた時宗の僧によって殺害され、6月には筒井氏を再興し全盛期を築いた順昭が28歳の若さで病没します。
遡って3月には三好長慶の元へ二度に渡って義輝方の刺客が送られていたことから、今谷明氏は遊佐・筒井の死も義輝方の手によるものかと疑っています。
(小説などでは剣豪将軍と呼ばれ清廉な人物として描かれることが多い義輝ですが、実際は弟に負けず劣らずのしたたかな人物だったようです)
順昭は天文19年夏頃より病を得て養生しており、嶋左近・松倉右近・森好之の三老らに対して、自分の身代わりとして黙阿弥という盲目の法師を床に入れ三年間喪を秘するよう遺言し、順昭の没後に体制を整えた筒井家は身代わりを務めた黙阿弥に金銀や衣服を与えて帰したとのことで、これが「元の黙阿弥」の故事として後世に伝わっています。
故事では、順昭は遺言で松永久秀が筒井家を滅ぼそうとするだろうと語っているそうですが、この頃の久秀は摂津滝山城主で、三好方も将軍義輝や三好政勝・香西元成ら晴元方丹波勢への対応に追われており、河内においても遊佐長教の死後内訌が起きている状況なので、黙阿弥の実在性はともかく細部については創作だろうと思います。(これにかぎらず、久秀が絡む逸話は後世の悪評が影響しているものが多いです)
久秀の大和への進出は、遊佐長教没後の河内守護代・安見直政によって追放された守護畠山高政を支援して河内に出兵、大和へと逃亡した安見直政の追討を口実に信貴山城へと移る永禄2年(1559)8月以後になります。
