備中兵乱に到るまでの備中松山城の歴史
松山城は今の天守閣が建つ「小松山」の背後に、鎌倉時代に秋庭氏が最初に築いたという「大松山」の城があり、三村氏の頃には小松山と大松山の間に「天神丸」の存在が記録されています。
小松山城を築いたのは元弘の頃に駿河高橋から出た大宅系高橋氏(観応の擾乱で宮方に付き、石見阿須那を本拠地とした大九郎師光の家)で、24年間と意外と長期に渡って備中高梁を領しています。
その後は備中守護・高師秀、ふたたび守護代秋庭氏ときて、永正5年(1508)の足利義稙を擁する細川高国・大内義興の連合政権が成立するとともに、足利支流で奉公衆の上野頼久が城主となってます。
(上野頼久はその名の通り、今の頼久寺を再建した人でもあります)
この辺りからが大内と尼子、そして尼子と毛利の舞台にもなってくるわけですが、備中守護細川氏の守護代として台頭した庄氏が尼子方、成羽を領していた三村氏が毛利方となって争い、晴久死後の尼子氏衰退と毛利氏の伸張とともに、毛利方として活躍した三村家親がほぼ備中を制圧しました。
そして備前の宇喜多氏と争いの中で家親が宇喜多直家の手の者により鉄砲で暗殺されたことで、宇喜多氏を仇敵とした三村氏が、毛利氏の宇喜多氏との和睦を機に離反して織田方に付くことになります。
(この辺りの毛利と織田に対する浦上宗景、宇喜多直家の動きは「お前らなあ…」とツッコミ入れたくなるくらい、お互い節操無くてとても面白いのですが…またいずれ)
そんな経緯で、松山城の三村氏を中心として備中全土に渡った争乱がいわゆる「備中兵乱」です。

単純に相関図にするとこうなりますが、要は元凶は宇喜多直家ということです(笑)

天守内では備中兵乱を紙芝居で紹介するDVDも見られました。
演技は地元の青年団(?)ということであれですが、これが約30分の力作で、備中松山城の落城までの経緯と備前常山城での三村方の終焉までを『備中兵乱記』に沿って分かりやすく紹介する内容で面白かったです。
こういうのを見たことをきっかけに、城がただの「観光スポット」ではないと感じてくれる人が増えるといいですね。

これは過去に訪れた際の写真ですが、常山城跡にある女軍の墓です。
城主・上野高徳の妻は三村元親の妹で、小早川隆景麾下の勇将・浦宗勝率いる毛利軍に一矢報いるべく侍女達とともに切り込んだものの、「女は相手にできない」とばかりにシカトされてやむなく城に戻って自刃したという、良いのか悪いのかいまいち分からない話があります。
義稙-高国政権期に松山城に入った上野氏と常山城の上野氏の関係は、元々は松山城の頼久-頼氏は上野氏の庶流で、こちらは庄氏によって滅ぼされて、喜村山城に入った本家の上野信孝の流れを継ぐのが高徳です。
また、同時期に備中へ入国した将軍近臣達の中に二階堂氏があり、その子孫の中島大炊介元行が書いたのが『中国兵乱記』で、これが『備中兵乱記』の元ネタと言われています。
