昭和41年発行「尼崎市史」も参考にしつつ、細川高国の最期について。
高国は僅かな手勢に守られて大物城へ向かったものの、すでに赤松氏の手が回っていたため断念し、町屋に紛れ込みます。
そして、紺屋の大甕の中に隠れて身を潜めていましたが、追手の老将・三好一秀は智恵を働かせ、子供達にまくわうりを与えて高国を探り当てさせたと伝わっています。
享禄4年(1531)6月8日、大物崩れからわずか四日後にして高国は捕縛され、広徳寺で切腹しました。
高国は都の公卿や文化人とも親交が深く、「尼崎市史」には辞世の短冊として「細川両家記」より六葉が引用されています。
徳様 無といひ又有りといふ言の葉や 法の誠の心成らん
逍様 犬追物今一度と思ひこし あらましはたゞいたづらにこそ
御所様 絵に写し石をつくりし海山を 後の世までも目かれずぞ見ん
能登の姉上へ 此浦の波より高くうき名のみ 世々に絶えせず立ぬべき哉
珊待者へ 世中にまよふてふ事なきものを 迷ひといへる言の葉は何
宗碩へ 夕立の雲たのめなる宿りかな
逍様とは三条西実隆(逍遥院内府禅公)のことで、応仁の乱により中絶していた犬追物の射儀を高国が復活したのに際して、故実に詳しい実隆の協力があったのではと述べられています。
高国の歌書として実隆が判詞を書き付けている「細川右京大夫高国朝臣自歌合」や、「細川高国朝臣六々歌仙」「六百番歌合」などもあり、後者は義父であり船岡山合戦の際も尼崎に在陣した北畠材親との共作と伝わっています。
また、「公方両将記」では高国を評して、文武にすぐれ、政務を一統し、非理分明の政道を執り、万民敬慕するところと称賛しているそうで、公卿からの人気という点でなかなか興味深いです。
