「尼崎市史」には享禄4年(1531)大物崩れの経緯についても地図入りで解説されていて分かりやすかったです。
地図を載せられないのは残念ですが、時系列で要約しますと…
3月10日 晴元勢の本陣が堺、高国勢の本陣が浦江。晴元勢が高国勢の先陣である小妻を攻めて大勝。高国勢は天王寺・今宮・木津・難波へと後退し、浦上軍は本陣警護のために野田・福島に総勢二万予騎で陣取った。
3月25日 晴元勢、細川政之率いる八千余騎が讃岐から堺に到着。
5月13日 細川典厩・香川中務丞が堺築島に、三好元長が沢の口・遠里小野に、久米・河村・東条・七条・一宮・三好山城守らは我孫子苅田堀に陣取り、総勢一万五千余騎が布陣。畠山方の木沢左京亮も加勢して晴元勢は二万三千騎を超える大軍に。
6月4日 三好が討ちかけて天王寺・木津・今宮が決戦戦列となり、晴元勢が大勝。高国勢の和泉守護(細川澄賢)・伊丹兵庫助国扶・河原林日向守・波々伯部兵庫助・薬師寺三郎左衛門ら丹波・摂津・和泉の勇将が戦死、高国勢は渡辺川まで追い詰められ壊滅。浦上勢が守る浦江の本陣は赤松勢の変心で壊乱し野里川が屍の山と化す。
3月10日の敗戦以来守勢に回っていた高国方に対して、晴元方は小競り合いを続けつつ援軍を待ち、一方で本陣を守備する浦上勢の後詰として神呪寺に布陣していた赤松政村を誘い、6月に決戦を仕掛けたという流れですね。
香西元盛との諍いから高国に讒言して元盛を殺させ、丹波勢の離反を招いた張本人の細川典厩尹賢が、ちゃっかり晴元勢に名を連ねているのが面白いです。
