これらの記述をまとめたと思われる内容がこちらのURLに記載されています。「社頭掲示板」からの引用のようです。
http://www.geocities.jp/engisiki/harima/bun/hrm460301-01.html
「永正3年(西紀1506年)赤松政村推鐘寄進(現存)」
「永正12年(西紀1515年)6月11日、天神地紙祭執行」
「大永元年(西紀1521年)6月卯日、天神地舐祭に装山の造車1基を神前に置く、この時修羅踊を行なう(一つ山の初見)」
「大永2年(西紀1522年)5月、赤松晴政装山3基を神前に置く(三つ山祭の起源)」
「天文2年(西紀1533年)9月、赤松晴政、三つ山祭21年日執行を下知す」
こう見ると総社で山の風習を始めたのも赤松政村のようで、この大祭に与えた影響って結構大きいですね。
また、『神祇志料』によれば、射楯兵主神社の祭神はその名前の通り、射楯神と兵主神ですが、射楯神は五十猛命、兵主神は大巳貴命のこと。
神饌を献る時は先ず一ノ宮兵主神、次に二ノ宮射楯神と神号を唱える時そうで、主祭神は射楯神だけども父子の順序を以て献る古例だということです。
また、射楯神は紀伊名草郡伊太祁曽神社、陸奥国色麻郡伊達神社と同神とのことで、奥州伊達氏の名字の由来にも繋がる神のようです。
Wikipediaによれば伊和神社にも一ツ山大祭、三ツ山大祭が伝わっているようですが、三ツ山が61年毎、一ツ山が21年毎で、ぞれぞれが実際に神社を囲んでいる山を遥拝する神事のようです。
そもそも播磨で大巳貴を祀っているのは伊和神社の方が遥かに古いですし、兵主神が合祀された後、政村の代に伊和神社の神事を模して行うようになったものと思われます。
