id:k-holy は
ホリィ(新人)のことを語る

旅行写真の整理やらPCの故障やらですっかり間が開いてしまいましたが、赤松義村の正室・松が洞松院の実娘という話について。
「赤松一族 八人の素顔」収録、依藤保氏「晴政と置塩山城」では「得平記」の記述を根拠とされていました。

>メシ様御父子共に最前ヨリ浦上ト御同心ノ事ニテ、御屋形ヲ捨御曹司ト一ツニ室ヘ御出被成候。

めし様(洞松院)が松と共に義村を見限って村宗を頼り、政村を連れて室津へ移ったことについて書かれたものですが、「父子(おやこ)」とあるから実の娘だと説明されてます。
しかし、史料の読み方は分かりませんが、政則が七条家から養嗣子を迎えたのが延徳元年(1489)、細川政元の姉と結婚したのが明応2年(1493)なので、時期的に考えるとおかしい感じもします。養嗣子としたなら当然、娘のまつをめあわせたと考えられますし。

この件、たつの市埋蔵文化財センター特別展「西播磨の戦国時代 赤松氏の興亡」の図録を読んでて気付いたんですが、大門先生の寄稿「戦国期赤松氏の盛衰」には以下のように書かれてました。

>明応5年(1496)、政則の跡を継いだのは義村であった。政則の実子としては、村秀がいたとも言われているが、よくわからない。村秀は、後に龍野赤松氏を引き継ぐことになる。もともと義村は赤松七条家の政資の子息であり、養子に迎えられたものであった。残念ながら、義村が政則の後継者として選ばれた理由は、よくわかっていない。

ついでに他にも手元の本を色々と読み返してみたのですが、洞松院とまつの関係に触れているものは依藤氏以外に見当たりませんでした。

「西播磨の戦国時代 赤松氏の興亡」を見たのは1年以上前(当時の書き込み)になりますが、改めて図録を読み返してみると、当時は読み流していた記述が興味深く感じられたりして面白いです。