この辺りは中津川の堤防跡とありましたが


地元の有力者らしい堤下茂兵衛さんが色々と代表して奉納されてます。「堤下」の名も堤防にちなんだものかな?
その後、野田方面へ。

野田御坊と呼ばれた極楽寺、いくつかあるらしい「野田城跡」の碑のひとつ。証如上人旧跡ともあります。

近くの円満寺にも記念碑と案内板があって、「例年三月八日九日 当村二十一人討死 御書御披露」とありました。
天文二年8月の法華宗による山科本願寺焼き討ちを受け、証如上人が石山本願寺に移った際、細川晴元の軍勢により野田村の信徒が犠牲になったとのことで、その21人を弔うために坊舎を建立したのが円満寺の始まりだとか。
それに対して上人がしたためた感状が「野田御書」と呼ばれ伝えられているそうです。
