id:k-holy は
ホリィ(新人)のことを語る

10/27の講座聞いてきました。
川岡先生は尼子氏については専門外だったそうですが、今回の企画展に向けて調べた成果を元に「尼子氏の勢力拡大と中央政界」と題しての発表。
1484年に幕府から追討を受け没落した経久が、僅か2年で再び京極政経のもとで富田城に復帰した事件の背景には、周防下向中の前将軍義尹から京極政経・尼子経久・宍道秀慶の三者に対し、上洛に向けての協力要請があったと指摘されました。
対山名として細川政元・赤松政則と連携し、また大内氏とライバル関係にあったはずの尼子氏が、なぜ細川高国や大内義興からの偏諱を受けたと見られるのか疑問だったんですが、1507年の政元暗殺から翌年の義尹・義興の上洛という流れで、この時期経久は京極政経とともに、義尹派として行動していたと考えると確かに腑に落ちます。
1508年には政経は死去しますが、先立って嫡子の吉童子への惣領職と出雲・隠岐・飛騨守護職の譲状の件を預け置くとの、政経から経久・多賀伊豆守宛の書状案が残っています。
そして、これを機に経久は幕府と直接結びつくことで出雲の支配権を掌握しようとし、それを示すのが国久・興久への偏諱というわけです。
ちなみに、経久が毛利興元や吉川国経とともに義興の上洛に従い、船岡山合戦に参加したという話を載せている本は多いのですが、史料上では尼子氏の上洛の有無は不明とのことでした。