間があきましたが画像も一通り上げたので(?)、川岡先生の講演の続きです。

講演の本題は経久の事績よりも、1552年に晴久が8ヶ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の守護職補任に至った流れでした。
大まかに書くと、背景には四国・九州を含めた西国の広範囲に渡る晴元方勢力と高国→氏綱方勢力の対立があったということです。
大内氏と尼子氏の衝突はその一環であって、晴元政権は一貫して大内・毛利方に肩入れしており、1541年の吉田郡山城合戦の知らせも毛利から木沢長政を通じて幕府(足利義晴・細川晴元・畠山在氏・六角定頼)へと届けられ、毛利には大内・土佐一条・赤松・宍戸らと連携するよう指示が出されているとのことです。
1543年に細川氏綱が堺で挙兵、三好長慶は三好政長との対立から氏綱方へと走り、1549年には足利義藤(後の義輝)・細川晴元を近江に敗走させ京都を制圧するのですが、その間にも氏綱から土佐の香宗我部氏に畠山稙長・尼子へ協力を求めていたりと、晴元政権打倒のため連携した動きが見られるとのことでした。
1551年には大内氏の内訌により大内義隆が陶隆房に殺害され、尼子氏にとっては勢力拡大の好機となるわけですが、幕府からも大内氏に代わる西国の一大勢力としての期待があり、1552年の8ヶ国守護職ならびに相伴衆への補任、従五位下・修理大夫への任官に至るというわけです。
そして、「戦国期においても幕府-守護の枠組みは地域社会を秩序付ける重要な要素」であるとして、「中央政界の動きや近隣の諸大名の動きにも目を配り、全体状況と関連づけながら論じていくことが求められる」という結論でした。
僕はこの時代は三好氏から入ったこともあって、両細川の乱はあくまで細川政元の跡目争いにおける京兆家内衆・畿内国人と、阿波守護家・三好之長→元長の対立の延長としか捉えていなかったので、大内と尼子という西国二大勢力の対決にも繋がっていたという視点には目から鱗でした。
