また間が空きましたが、尼子講座の続きです。
川岡先生の後は、大内氏居館跡の発掘を主にされているという、山口市史編纂室の古賀さんの講座「京都系土師器からみた尼子氏と西国の諸大名」がありました。
室町時代に京都で使用された土師器(いわゆる「かわらけ」)を模したと見られる「京都系土師器」が各地で出土されているそうですが、その形や表面から分かる製作技法によって、京都文化の受容や志向の存在が推測されるという話。
伊勢貞頼による故実書「宗五大草紙」に将軍御成の配膳が図で説明されていて、「みみかはらけ」「へそかはらけ」「大ぢう」といった、形や大きさの違う土器がどのように使われていたのかが分かるということでした。
足利義尹が下向していた大内氏居館跡からそれを示す京都系土師器が多数見つかっているのは分かるのですが、面白いのは毛利氏が1562年からの尼子攻略の際、海上輸送の玄関口となる白鹿城の付城として築かれた荒隈城(洗合城)でも、大小様々なかわらけが出土しているということです。
耳かわらけ(箸置き)も出土しており正式な宴会が行われたことが推測できるとのことで、包囲網の完成に伴って1564年に富田城を見下ろす京羅木山へと本陣が移されるまで、じっくり腰を据えて攻略していたことが分かります。
出土品だけで京都文化の受容度が測れるとは限りませんが、大内氏居館跡については「将軍御成雑掌注文」という記録に足利義尹が大内義興の屋敷に赴いた際の25献123品にも及ぶ献立が記されているのですが、その年代と推定されるものが出ているそうです。
その他にも、月山富田城跡、毛利氏の郡山城跡、因幡山名氏の布勢天神山城跡、河野氏の湯築城跡などからも京都系土師器が出土していて、大内氏居館跡、阿波細川氏→三好氏の勝瑞城跡、大友館跡からは金箔入りのかわらけも出ているとのこと。
また、薄く白くなるほど都の影響を受けているとか、縁が黒くなっているものは灯明用として使われた跡といった話もありました。
ちょうど神戸の平野でも、平家ゆかりの公卿の屋敷跡と推定されている祇園遺跡や荒田遺跡が発掘調査されてて、池の跡から宴会で使い捨てられたと見られる多数のかわらけが出土しています。
記録に残されていない事実が遺物から導き出されることもあるわけで、合戦史ばかり追っている僕にとって興味深い内容でした。
(11月17日には、富田川河床遺跡と新宮谷遺跡の出土品から尼子氏と大陸・半島との交流についての講座が予定されていますが、こちらは残念ながら行けそうにありません…)
