八尾の安中新田会所跡 旧植田家住宅


宝永元年(1704)大和川の付け替え工事に伴って開発された安中新田の会所屋敷跡で、約50年後に新田の支配人としてやってきた植田家の旧宅だそうです。
その植田家の所蔵品である大津絵のスクラップブックから一部が展示されていて、それを見るのが主な目的でした。

870年から500年以上も書き込まれていない年表に、ぽつんと「文明15年 畠山義就が水攻めのために植松堤を切る」とあるのが印象的でした。
応仁・文明の乱の和睦交渉で東軍の赤松政則と並んで最後まで反対した西軍の畠山義就は、山名・細川両氏の単独講和、大内氏の東軍帰順、義政と義視の和睦という流れの中で河内に下国、遊佐氏ら政長派を破って一円を制圧、越智氏や古市氏の支援を受けて大和国をも実力で勢力下に収めます。
この水攻めも、政長派との戦いの中で行われたものでしょうか。
ちなみに義就はその後、南山城から京に攻め上るも、文明17年(1485)には山城国一揆により河内に撤退、延徳2年(1491)に死去します。
めっぽう好戦的で息子にも「修羅」と名付けたりしてて(先立たれてますが)、なかなかケッタイな人物だったようです。
