三度目の「備前 浦上氏」を読了しました。
http://h.hatena.ne.jp/k-holy/171940152642418377
↑この流れの川岡先生の講演「尼子氏の勢力拡大と中央政界」で新たな視点を得て、今度はまた何度目か分からない今谷明先生の「戦国 三好一族」を読んでます。
特に永正5年(1508)から享禄4年(1531)に渡る赤松義村・政村と浦上村宗の時代、細川高国政権と細川澄元→晴元政権という二つの流れが絡む複雑な時期について、整理してみるメモです。
明応五年(1496)に赤松政則が死去、家督は養子の道祖松丸(義村)が継承しますが、浦上則宗はこの機に守護の権限を掌握しようとして他の被官人からの反発を招き、播磨・備中・美作は「東西取合」と呼ばれる内戦状態となります。
後に管領・細川政元の仲介によって和睦が成り、政則の正室であった政元の姉・洞松院尼が義村を後見する体制に移りますが、そのような状況で則宗が文亀2年(1502)に死去します。
嫡男の則景は山名氏との戦いで既に亡く養子の祐宗が家督を継ぐも間もなく死去、その後を幼少の身で継いだのが、備前守護代を務めた宗助(則宗の甥)の子である幸松、後の村宗でした。
