流れは遡りますが、この辺りは中央における9代将軍・足利義尚の跡目争いも合わせて追う必要があります。
義政の子・義尚の死後、義視の子・義材が延徳2年(1490)に第10代将軍職を継いだのですが、明応2年(1493)に細川政元が管領・畠山政長を討伐、足利政知(堀越公方)の子・義澄を新たに擁立した明応の政変によって、畿内とその周辺の勢力が大きく二分されます。
京都を追われた足利義材は、畠山政長の旧臣・神保長誠を頼って越中に逃れ、更に越前で朝倉貞景の支援を受け上洛を試みたものの叶わず、周防の大内義興の元に逃れました。
一方、義澄を擁する細川政元には実子がなく、丹波守護職を継いでいた前関白九条政基の子・澄之と、摂津守護職を継いでいた前阿波守護細川成之の子・澄元、この2人の養子に派閥を分けた跡目争いが始まります。
そして永正4年(1507)、澄之方の香西元長によって政元が暗殺されるに至り、澄元方は京を追われて近江に逃れますが、家督を継いだ澄之もやがて細川家庶流の高国を中心に結束した反澄之派による反撃を受け、わずか三十余日で没落しました。
今度は澄之に代わって家督を継いだ澄元と三好之長ら阿波勢が実権を握りますが、その専横を嫌った高国は永正5年(1508)3月に出奔、摂津・丹波の国人を糾合するとともに、前将軍の義尹(義材)を擁する大内氏と手を結びます。
そして、翌月には大内義興が大軍を率いて上洛、近江に逃れた義澄に代わって義尹が将軍となり、高国が細川宗家の家督を継いで管領に、大内義興が山城守護として在京し幕政を主導する体制となりました。
