明応の政変の補足を渡邊大門先生の「戦国誕生」から。
政元と義材との対立は長享3年(1489)の義尚没後から続いており、文明9年(1477)の東西和睦以来、美濃の土岐成頼の元へ亡命していた義視・義材父子が上洛した際、異議を唱えて阻止しようとしています。
日野富子も妹の良子が義視の妻という関係から義材を支持していたものの、義政が病死した延徳2年(1490)には故義政の別邸である小川御所を香厳院清晃(義澄)に譲って義視の怒りを買い、小川御所は義視の命令で破壊されたそうで、義視・義材父子と対立していきました。
間もなく良子が、そして「大御所」として実権を握っていた義視が病没、元々幕府内に協力者がいない義材は孤立を深めますが、そこで連携相手として選んだのが管領・畠山政長だったということです。
義視も扱いづらい人だったようですが義材も同様で、延徳3年(1491)には政元の反対を押し切って自ら近江の六角高頼を追討、明応2年(1493)にも畠山政長、斯波義寛、赤松政則らを率いて畠山義就の後を継いだ基家を討伐するため河内に出陣します。
その留守中、政元が日野富子や前政所執事の伊勢貞宗と組んで明応の政変を起こしたという流れですが、背後には応仁の乱以前から続く足利義視と伊勢貞親(貞宗の父)の対立、畠山政長・義就の対立、また尾張守護代・織田敏定に擁立されていた斯波義寛とその家来筋である越前守護代・朝倉貞景の対立も絡んでいたようです。
大乱の大きな要因となっていた対立関係はそれぞれ個別の問題であって、形だけの「東西和睦」は何の解決にもなっていなかったということでしょう。
