細川政元についてはまだ詳しく書かれた本を読んでいないのですが、断片的な情報だけでも、畿内周辺で有力守護家における反乱を多数画策していることが分かります。
以前に 「朝倉氏の家訓」の感想 でも書いた内容ですが、たとえば朝倉氏では英林孝景の四男で一族の最年長者であった景総が当主の貞景と対立して出奔、政元の偏諱を与えられて弾正忠元景を名乗り、文亀3年(1503)には婿であった敦賀郡司の景豊と共に主家への謀反を企てています。
また、六角氏に対しては明応2年(1493)に六角高頼に代わって山内就綱を守護に補任して支援、文亀2年(1502)の守護代・伊庭貞隆の乱にも介入しています。
政元は愛宕の法(いわゆる修験道)にのめり込んで政道を顧みなくなったと言われていますが、末柄豊先生の「細川政元と修験道 司箭院興仙を中心に」に興味深い指摘があります。
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/suegara/shisenin.htm
「後慈眼院殿御記」という公卿の日記で、明応3年(1494)頃に唐橋在数が安芸から上洛した司箭という山伏の噂を訪ねて鞍馬寺へ来たら政元が司箭の宿所に来ていたこと、また「実隆公記」で永正3年(1506)4月には「司箭院興仙僧正」と呼ばれていること、「和長卿記」明応9年(1500)7月に起きた大火の被災者のうち政元の被官人として、右腕として軍事面で活躍した赤沢宗益(朝経)と並んで記されていることなどから、政元が愛宕信仰に傾倒したのは司箭の影響が大きいのではないかということです。
また、宍戸家俊(司箭)の父・元家の「元」は細川勝元からの偏諱ではないかと述べられ、家俊の姉妹が若狭武田氏重臣の粟屋越中守に嫁いでいることから、守護の山名氏あるいは隣国の守護大内氏への対抗上、武田氏・細川氏と互いに連携を深めたのではないかと述べられています。
さらに、政元は司箭との接触以前も、延徳3年(1491)に(おそらく政変の下準備として山内上杉氏との提携を図って)越後へ下向した際、「山伏大輔」を同行させていることや全員が山伏の身粧で随従するとの風聞があったこと、東北の聖護院系修験組織の拠点である奥州白川へ下向の意志を伝えていることなどから、修験道を個人的な趣味だけではなく独自の政治活動に利用していたと述べられています。
