僕自身は、政元と修験道の関わりはともかく、「芸藩通志」が記す司箭の話は、広島藩に仕えた築山通護によって自流の流祖伝説として附会されたものがそのまま掲載されただけなのでは、という疑念が晴れていません。
家俊は兄・深瀬隆兼の養子になった後に厳島明神で修行、出奔して上洛したことになっていますが、隆兼が祝屋城主になったのは永正元年(1504)とされているので都での司箭の活動時期と合わないし、元亀元年(1570)に帰郷して河野大蔵通昭に武術を伝えたという話に到っては、ちょっと事実としては受け入れがたいです。
前述の末柄豊先生の論考も、そういう疑いの目で見れば、「後法興院記」には「司箭院息源次郎」と記されているものの、宍戸家俊=司箭と伺えるのは「続群書類従」掲載の宍戸系図と、幕末に広島藩によって編纂された「芸藩通志」だけのように読めます。
(幕末の広島藩では貫心流は御家芸でしたし、その伝説をそのまま掲載するのも当然という気はしますので…編纂の中心となったのは頼山陽の叔父にあたる頼杏坪とのことで、そういえば山陽も貫心流を学んでました)
あの記事が発表されたのは1992年12月ですが、司箭についてはその後研究されていないのか、Wikipediaの「司箭院興仙」の記述は、末柄先生の論考の要約に貫心流の伝説が付け足されただけという感じです。
(今はもうWebからは喪失してしまった福原元澄という方の「安芸・毛利一族HomePage」にあった内容に酷似しているので、そちらからの丸写しか御本人が編集されたのかもしれません)
