こちらの両細川の乱における赤松氏と浦上氏の動きに戻ります。
永正5年(1508)に足利義尹を擁する細川高国と大内義興の連合政権が成立したものの、永正8年(1511)には細川澄元が赤松氏の支援を受け反撃、一時は京都を制圧して高国を丹波に追いやります。
しかし足利義澄が近江で病死し士気の上がらない澄元方は、船岡山合戦で敗北、再び命からがら本国阿波へと逃れることになります。
この時、義澄は二人の遺児を赤松氏の元に逃していたのですが、これが後に浦上村宗が高国政権で重要な役割を果たす一つの要因になります。
この頃の赤松氏は政則の娘・松を娶せた七条家からの養子道祖松丸(義村)を、細川政元の姉で政則の正室であった洞松院が後見し実質的に守護の権限を行使していました。
浦上氏は文亀2年(1502)に則宗が没した後、細川京兆家重臣の安富氏からの養子・祐宗が当主となっていたと思われ、両者の関係も比較的平穏だったようです。
「赤松一族 八人の素顔」収録の依藤保氏「晴政と置塩山城」によると、この時期の赤松氏本拠地の置塩館には歌人で有名な冷泉為広など京都の公家が頻繁に訪れていて、永正8年(1511)3月には母とともに近江から逃れてきた義澄の子・亀王丸のために御所が造営され、永正16年頃まで置塩館や御所で頻繁に歌会が開かれていたそうです。
そのような関係もあってか、幕府も澄元方に付いた赤松氏を厳しく処罰できなかったようで、永正9年(1512)には浦上村宗が別所則治とともに上洛し、赤松次郎と名乗っていた義村に将軍家の一字「義」と兵部少輔の官途が与えられています。
