浦上村宗が赤松義村を弑逆するに至るまでを、「赤松一族 八人の素顔」収録の小林基伸氏「浦上則宗・村宗と守護赤松氏」も参照しつつ。
義村は成長するとともに浦上村宗に代わって小寺則職を重用するようになり、配下の三奉行を取り立てるなど自ら領国支配に乗り出し、村宗は永正16年(1519)に讒言によって出仕を停止させられます。
そして義村は成敗と号して浦上氏本拠の三石城を包囲しますが、本意を達せられず撤兵、更に永正17年(1520)4月には浦上氏被官の中村氏が篭る美作岩屋城を攻め二百余日に渡って戦いましたが、宇喜多能家らの活躍により浦上方が勝利し、小寺則職が自刃するという惨敗を喫しました。
(なお浦上氏も決して一枚岩ではなかったようで、備前守護代を努める弟の宗久が義村方について村宗に滅ぼされており、これによって備前は村宗の一元支配体制に移ったとのことです。)
永正17年(1520)11月に義村は再び三石城へと兵を進めたものの、備中の松田氏が浦上方へ援軍を送るとの噂が立ち年末には退去、義村は家中にも見放されることになり性因と名乗って出家し、嫡子の政村と洞松院、義村正室の3人が浦上方の拠点である室津に迎えられました。
その後も諦めることなく、永正18年(1521)に義村は小寺氏の残党や龍野赤松氏の村秀の支援を受け兵を進めましたが、頼みの綱であった広岡氏に裏切られて戦わずして撤退、和睦という形で両者の対立は終結します。
そして永正18年(1521)7月、村宗が細川高国の要請によって義澄の遺児・義晴を上洛させたわずか2ヶ月後、義村は半ば幽閉された状況で片島から室津に移された末、村宗の刺客によって謀殺されてしまいました。
小林基伸氏によると、洞松院はその執政期に専権政治の性格を強めたため反対派が形成されていて、義村の自立に伴って家中が分裂する可能性をはらんでいたこと、また義村正室の松も洞松院の実の娘であり、洞松院共々かねてより村宗に同心していたそうです。
幼少の身ながら養子として家督を継ぎ、都の文化に触れて育ちながらも文弱に流されず自ら権力を振るおうとした結果、妻に見捨てられ子も奪われて哀れな最期を迎えてしまったとすれば、なんだか哀れな話です。
