つい先日、図書館で読んだ「本庄村史 歴史編」(2008年発行)に、永正8年(1511)7月に細川澄元が赤松氏の支援を受けて高国方に反撃した際の、摂津葦屋荘の鷹尾城を巡る戦いについて詳しく書かれていました。
澄元、三好之長らは摂津守護・細川政賢や淡路守護・細川尚春の大軍を加えて和泉から京都へ迫り、7月13日には高国方を破って摂津中島まで進出します。
高国方の瓦林正頼が守る鷹尾城を攻めるべく、澄元方の細川尚春ら淡路勢は兵庫から上陸して東進、高国も柳本、波多野、能勢、荒木らを派遣し、7月26日に葦屋河原で合戦に及び澄元方が大敗します。
澄元は播磨の赤松義村に援軍を要請、8月に入って義村は2万の大軍を率いて播磨を出立し、鷹尾城はあえなく落城したという流れです。
葦屋河原の戦いは京都の公家たちも注目していて、高国贔屓として知られる三条西実隆は翌日に先の関白一条冬良から戦勝を聞き、神祇伯雅業王らとも喜び合ったと記しています。
「抑摂州合戦昨日勝利得、尤珍重々々、自前太相国有此告、又雅業王来談、同前■■之基也、歓喜々々」
(「実隆公記」永正八年七月二十七日条)
また「瓦林政頼記」には葦屋河原の戦い直前の本庄地域の状況として、灘五郷のうち長年不和だった本庄と西宮が手を組んで鷹尾城を攻めた話が記されていて、興味深いです。
高国が灘の地侍に澄元方を攻撃させようとしたものの命令に従わなかったため、正頼が武士20人余りを派遣して澄元方の中心人物「足高」を討ち取ったこと、また正頼が今後鷹尾城の外堀を作ったら用水は桶で取水するよう命じたところ、田畑の用水が減って困る本庄衆は灘五郷の衆を集め、河島浜兄弟を先鋒として鷹尾城を攻撃したとあります。
