守護奉行人は主に寺社側からの訴訟や申請の窓口となって奉書を発給したそうで、時には在国の守護代や国人とは利害が対立する立場にあったことには要注意です。
嘉吉の乱前後の浦上氏の動きは史料には詳しくありませんが、長禄の変において神璽奪還のため吉野に入った赤松旧臣達の一人に浦上右京亮の名があり、これが当時二十代後半の則宗であろうと述べられています。
神璽奪還の功により赤松氏は加賀半国守護に任ぜられますが、長禄三年(1459)の入部の際にはすでに在京奉行人として連署の一番奥に署判を加えており、寛正三年(1462)の土一揆では当時僅か八歳であった政則を支え、当時の侍所所司代・多賀高忠と共に鎮圧に貢献し、将軍から太刀を拝領されています。
またこの本では触れられていませんが、応仁の乱における赤松軍そして則宗の活躍は、山名蔵で購入した「山名氏赤松氏研究ノート 第7号」に寄稿された宮田靖國「花の乱戦史」に引く、陸軍少佐鈴木友吉「京都付近著名古戦史」に詳しく述べられていました。
特に応仁元年8月の南禅寺裏山の戦い(東岩倉の戦い)では、援軍として三千の兵を率いて入京した則宗は大文字山に陣取って篝火を焚き、大石の投擲によって第1次の大内隊、第2次の山名隊、第3次の畠山隊、第4次の斯波隊と四度に渡って撃退し、その後本軍に合流したということです。
おそらく「応仁記」を元に書かれたものなので、どこまで信頼できるのかは分かりませんが…。
則宗のことを「家宰」と表現した研究者がいましたが、この本でも京極氏における多賀高忠、土岐氏における斎藤妙椿、斯波氏における朝倉孝景を挙げて、「主家を凌ぐほどの威勢を保持」したと述べており、呼び名はともかくそのような理解が妥当なようです。
ただ、以前の講演でも強調されていたんですが、則宗の代では積極的に幕政へ参画し寺社領を保護するという守旧的な立場で、あくまで幕府-守護体制の中での権力を獲得するに留まっています。
その点は荘園押領で恨みを買い、公卿から「天下悪事等始行の張本なり」などと評された朝倉孝景とは大きく違うところでしょうか。
(ちなみに、西軍の有力武将だった孝景を越前守護職を餌に東軍に寝返らせる公称に当たったのは則宗でした)
