先週、一乗谷朝倉氏遺跡資料館で購入した「朝倉氏の家訓」
A4サイズ240ページ以上に及ぶ内容で、1300円は超お買い得でした。

「朝倉孝景条々」「朝倉宗滴話記」「築城記」の本文、読み下し文、注釈、訳文が併記されてるんですが、注釈が語句の意味について史料名を挙げて具体的に解説されたもので、とても参考になります。
まだ通してちゃんと読めてませんが、ずっと疑問だった、六角定頼が小谷城を攻めた際の朝倉氏の動向について注釈があったのでメモ。
「朝倉宗滴話記」第三十三条
(意訳)「十二度の陣のうち野戦は七度、うち三度自分の武器に血を付けた、八人いた英林の男子のうち、合戦で自ら武器を振るい血を付けたのは自分一人である。家来の者と同然に働いたので、士卒が自分の命令を聞かないことはなかった。」
で、続く三十四条に、その十二度の陣についてそれぞれ書かれているんですが、その中に「四十九歳江州北郡大谷七月十六日城攻有之」という文があります。
注釈によれば、大永5(1525)年5月に、近江守護六角定頼が小谷城を攻めた際、朝倉氏は六角氏に加勢したということで、「賀越闘諍記」に「又大永五年五月中旬ニ、江州六角方、浅井備前守退治ノ時、教景江州北ノ郡ヘ進発アリ、浅井ガ城ノ山ニ陣取、攻ラレケレバ、浅井ツイニ城ヲアケテ出ル程ニ、同九月ニ開陣アリ、其時ノ陣所ヲ今モ金吾築ト申也」とあるとのこと。
小谷城跡の解説板などには、宗滴は六角氏に攻められた浅井氏を守るために小谷城の尾根に陣取って、和議の仲介をしたようなことが書かれてましたが、逆ということでしょうか。
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