小谷城址「間柄峠」の解説板。(なぜか真柄じゃなくて間柄。伝承されるうちに変わったのかな)

手元にある小谷城址保勝会刊「戦国大名 浅井氏と小谷城」(昭和63年発刊)には、「ときに宗滴は四十九歳の分別盛り、朝倉氏との関係は益々深まり、遠く長政の代にまで大きな影響を及ぼすこととなる」「教景のせっかくの努力も効なく、和議の条件も愈々悪くなり、遂に九月十八日、亮政は言うに及ばず京極高清・高延もまた没落し、美濃に走るに至った。」とあって、「朝倉教景は尚美濃まで追って和議を成功させようとしたようである」とまで書かれてました。えらい違い…
ちなみにその根拠が「朝倉始末記」とあるんですが、朝倉始末記の元ネタの一つが先の「賀越闘諍記」だそうで…。(どっちも朝倉氏滅亡後に書かれた軍記物とのことであれですが)
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