id:k-holy は
ホリィ(新人)のことを語る

三代貞景の頃、宗家と対立して出奔、細川政元に仕えたという朝倉景総もなかなか興味深いです。
教景(宗滴)の兄に教景(以千宗勝)という人がいるんですが、そのすぐ上の兄が景総で、母親の身分が高いというだけで教景(宗勝)が上座に着くのが気に入らないと相撲の場で打ち殺したという乱暴者だったようです。
(宗滴も宗勝と同じ孝景の後妻・桂室永昌の子で、七歳の頃にこの事件があったため、幼名も兄と全く同じ小太郎を名乗ったとか。ややこしい…)

その後、景総は越前を出奔し細川政元に気に入られて弾正忠元景と名乗り権勢を振るった一方、朝倉貞景は無位無官の状況だったそうで。
それ以前の明応7(1498)年、明応の政変で京を追われ越中の神保氏の元に逃れていた前将軍・足利義尹(義材/義稙)が上洛した際も、朝倉貞景によって一乗谷に迎え入れられたとのことで、どうも当時の朝倉氏は幕府(というか細川政元)と絶縁状態にあったようです。
政元の方でも将軍との関係が悪化、独自に戦国大名として畠山氏領国の併呑など畿内支配を進めていた頃だし、朝倉一族の年長者だった元景を支援するとともに、その婿の景豊を唆して敦賀支配を目論んだんでしょうか。

教景が宗家の貞景に味方し素早く敦賀城を落としたため策謀は失敗したわけですが、元景はその後も懲りずに加賀に逃れ、永正元(1504)年には斯波氏、甲斐氏、二宮氏など反朝倉勢力を糾合し五千余の軍勢で越前に侵攻したとか。
貞景はこれを撃退して、ようやく名実ともに越前支配を確立したということです。(その後も一向宗との戦いは続きますが…)