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平山優「天正壬午の乱」より、小笠原貞慶について

貞慶は武田信玄に敗れて没落した信濃守護・小笠原長時の子で、没落後の動向は確実な史料がないそうですが、近年発見された小笠原長時・貞虎の摂津本山寺への寄進状の内容から、貞虎の名は永禄元年に越後で元服した際に長尾景虎から偏諱を受けたもので、永禄四年には上洛して鎌倉期の阿波守護小笠原氏の後裔を称していた三好氏の庇護を受け、貞慶と名を改めたと推定されるとのこと。
小笠原父子は足利義輝に近侍していたそうですが、長慶の死後、松永久秀と三好三人衆によって義輝が討たれると、今度は三好義継を頼って芥川城に移り、更に信長の上洛戦で芥川城は陥落、その後も三好方として戦うも永禄十二年の敗戦で再び一族ともども牢人、長時と弟の貞種は再び上杉氏の元へ戻り、嫡男の長隆も一時家康方の高天神小笠原氏を頼った後、上杉氏に仕えました。

ただ一人京都に残り足利義昭に仕えた貞慶は、義昭が武田信玄と結んで信長に反抗し京都を追放されてからは、信長の家臣として信濃の小笠原旧臣や関東の反北条方の国衆への工作など対武田・北条戦に奔走、信長から信濃攻略が成った暁には旧領を回復するとの朱印状を授かりました。
しかし信長は勝頼滅亡後、旧臣を集めて信長の元に参陣した貞慶を無視し、小笠原氏旧領の深志城、安曇・筑摩二郡ともいち早く武田家より離反した木曽義昌に与えられ、貞慶は失意のまま信濃を去り再び上洛したそうです。
その間、上杉氏に仕えた兄の長隆は越中の対織田戦で戦死、父の長時は御館の乱に際して蘆名氏に身を寄せ、貞慶に家督を譲って死没します。(家臣に殺されたという話もあるようです)