応仁文明の乱まで、赤松氏と南朝絡みの流れまとめ
・応永二十一年(1414)、応永三十年(1423)
伊勢国司・北畠満雅(北畠親房の曾孫)が後亀山法皇の吉野への出奔を受け、伊勢で挙兵。いずれも和睦。
・正長元年(1428)
北畠満雅が後亀山法皇の孫にあたる小倉宮(聖承)を擁立、鎌倉公方・足利持氏と連携して再挙兵するも、新伊勢守護の土岐持頼により鎮圧され敗死。
赤松満祐は満雅の後を継いだ顕雅の赦免と小倉宮の京都帰還を擁護。
・嘉吉元年(1441)
赤松満祐が将軍足利義教を暗殺、足利直冬の孫・義尊を擁し(井原御所)挙兵、小倉宮の末子を担ぎ出そうとした(未遂)が、他の有力守護は同調せず失敗。
山名氏は赤松氏討伐の戦功により勢力拡大、細川氏は管領・細川持之の没後、新当主・勝元が幼少につき停滞、畠山氏は持国の家督復帰と管領就任により権力増大。
将軍義教による介入を初端とした加賀守護・冨樫氏の後継者争いに関わり、畠山持国と細川持賢が対立。
・嘉吉三年(1443)
源(鳥羽)尊秀、日野有光・日野資親、金蔵主・通蔵主、赤松氏旧臣を含む牢人とともに内裏を襲撃して宝剣と神璽を強奪。(宝剣は後に清水寺で発見)
山名持豊・細川持賢も畠山持国への対抗から共謀し関与した疑い、細川持賢が赤松氏再興を条件に旧臣を利用した?
・長禄元年(1457)
上月満吉、小寺藤兵衛ら赤松氏旧臣が南朝方に潜り込み、一宮(自天王)・二宮(忠義王)を殺害、大和の南朝方国人・越智家栄、吉野の土豪・小川氏と協力して神璽を奪還。
赤松政則は管領・細川勝元の尽力により備前新田荘と加賀半国守護を与えられ長禄三年に入部、加賀では冨樫氏被官と交戦し1年がかりで駆逐、応仁の乱までの約8年間は守護代・小寺氏による実効支配。
・文明二年(1470)
西軍の山名宗全により小倉宮後裔とされる岡崎前門主の息子が迎え入れられる。(西陣南帝)
ちなみに「西陣南帝」はあの「熊沢天皇」が直系と称した人物とのことで、ぐーぐる先生に尋ねてみると色々と真偽不明な情報が出てきました。
なんか全国各地に西陣南帝やその末裔が流れ着いたという伝説があるみたいですが…。
