「蛍火の杜へ」ネタバレ
「パンズ・ラビリンス」を見た後だからか、「蛍火の杜へ」を見ている間、「少女」が「異界」と接触する話の構造について考えてしまった。どちらもヒロインの妄想だった、というので解釈できなくもない。ただ、「パンズ~」が、現実世界が異界に逃避したいほど悲惨な物だったのに比べ、「蛍火」はそうではない。
前者は現実世界での死によって「異界」を手に入れ、後者は「異界」と人間の使者たる者の死で一時異界と切り離される(異界から拒否されたわけでも、まったく異界と交渉できなくなったわけでもない)。
この前者の厳格さと後者のあいまいさ(やさしさ)が、二つの映画の観終わった後の感情を分けてるんだよなあ。
まあ内戦下のスペインと平和な日本を比べんな、って話ですけど。
「さあいこう いきましょう」でまた異界に分け入っていける蛍は、成長して社会人になっても、妖怪と出会える(見えて話ができるかどうかはわからないけど)予感とともに、物語は終わる。
「パンズ・ラビリンス」では成長するとともに離れていかなければならないネバーランド的なものだった異界は、「蛍火」ではかかわりの濃淡はあれど一生付き合っていけるものとして描かれている。「異界」を、自分を受け入れてくれる居場所、と考えると、「パンズ・ラビリンス」では(あの王国に迎えられるというラストは少女の妄想で、実際は死んだだけ、とも解釈できるんだよなあ)、現実か異界か選ばなければいけなかったけど、蛍にはどちらにもゆるやかな居場所がある。
と考えると、二次元でも三次元でも、どちらにも緩やかな居場所を持っていたほうが、結局はどちらも失わずにすむし、大切なものを失っても、大切なものをはぐくんだものが希望となってくれる、ってこと、かな…。
かがみのことを語る
